荀子の性悪説と孟子の性善説は本当に対義語なのかどうか
荀子が唱えたと言われる性悪説、対義語としてよく扱われる孟子の性善説。名前だけで言うと対義語なのだが、その本質は実のところ対義語と言えるのか定かではないのはあまり知られていないところです
そんな性悪説と性善説がどんなものであるのか簡単に解説しながら対比させてみたいと思います
◼️性悪説とは
荀子は、人間は生まれながらにして悪であると主張しました。彼は、人々の欲望や自己中心的な性質がその本性を示すものと考えました。そのため、人々は教育や習慣、礼や法によってその悪なる本性を制御・矯正する必要があると彼は考えました。良い行動や道徳的な行為は、これらの外部の要因によって培われると荀子は主張しました。
◼️性善説とは
孟子は、人間は生まれながらにして善であると主張しました。彼は、人々が自然に感じる同情心や慈悲の心を例として挙げ、これが人間の善良な本性を示すものと考えました。しかし、環境や教育、生活条件などの外部要因により、この善なる本性は歪められることがあるとも述べました。そのため、良い教育や適切な環境が人間の善良な本性を保ち、発展させるためには必要であると彼は考えました。
◼️性悪説と性善説を比較してみると?
性善説(孟子):
- 人間は生まれながらにして善である。
- 人々の自然な感情、如く同情心や慈悲は善良な本性を示す。
- しかし、環境や教育などの外部要因により、この善なる本性は歪められることがある。
- 良い教育や環境が人の善良な本性を保ち、発展させるためには必要である。
性悪説(荀子):
- 人間は生まれながらにして悪である。
- 人々の欲望や自己中心的な性質がその本性を示す。
- 教育や礼、法などの外部の要因によって人間の悪なる本性を制御・矯正する必要がある。
- 良い行動や道徳的な行為は、これらの外部の要因によって培われる。
この二つの説は人間の本質としては正と悪の対になっているのですが、結局のところ人間は悪に行き着くという着地点を持っています
性悪説は生まれながらに当然として悪であり、性善説は生まれた後に悪になっていくという点です。その悪を正にの方向にするためには互いに良い教育・環境が必要という意外と似ている観点を持っています
現代の日本では表面上は性善説と言いつつも社会では性悪説を中心に物事が進められる傾向がありませんか?実はそれは得てしてどちらでも間違ってもなく、人間は間違うので疑ってかかるのが良しという荀子・孟子の教えなのかもしれません